青侍が生く!

IT営業マンが人生を賭けて税理士に転身した結果

仕事を生き甲斐にするということ〜IT営業マンのジレンマ〜

少し、前職の話をします。

僕は税理士を志す前は、今とは全く異なるIT企業の営業マンをしていました。仕事はそこそこに大変でしたが、それなりにやり甲斐はありました。

ただその頃、僕の中には漠然としたモヤモヤがありました。きっとそれは世の中で多くの人が抱えているであろうモヤモヤだと思います。

 

【この仕事を自分の生涯の仕事とするのか??】

 

一生のうち、仕事をしている時間は人生の大半を占めます。だからこそ「好きを仕事に」「好きなことで生きていく」耳にタコができるくらい聞く言葉です。

でも、それができてる人って何%くらいなんだろう。きっと大半はモヤモヤを抱えながら日々を生きているはずです。

ただ漠然とやりたいことを模索しながら大学生活を過ごし、なんとなく自分が得意そうだと思ったIT業界に進むことにした僕には、まだそれに対する答えは出ていませんでした。

 

■社会人として働くということ

社会人1年目、2年目。まずは仕事を覚えるのに精一杯だった時代。毎日終電まで仕事をし、上司からは怒られまくり、ヘトヘトになりながら、それでもまずは社会に順応するために必死になりました。

当時いたのはゴリゴリの体育会系の部署。しんどい時期ではあったけど、直属のトレーナーはめちゃくちゃ仕事ができたし、上司には社会というものを教えてもらいました。


3年目。ある程度仕事が身についてきて、仕事について自分の考え方を持つようになる時代。多くの人が少なからず転職などを意識するのもだいたい社会人3年目なのではないでしょうか。例に漏れず僕も自分の仕事についてあれこれ考えるようになりました。

その当時の僕の仕事は大手企業の営業担当で、仕事の相手はシステム部門。3年目になっても自分の知識が顧客の知識を上回ることはなく、顧客から受けた要望について、調べて、聞いて回って、技術者をアサインして、ようやく商談の形を保っていました。その頃僕は、自分の知識が乏しいことが苦痛で仕方がありませんでした。

 

スキルアップの為の資格受験

そして思い至ったのが、基本情報技術者試験の受験でした。入社時にSEが受けていた資格で、営業は取る必要がなかったのですが、これを勉強すればもう少しシステムについても体系的な営業トークができるのでは??そう思ったのです。

しかし、当時あまり勉強クセが付いていなかった僕は、あろうことか試験日までほとんどテキストを開くこともないまま、試験前日は飲みに行って翌日は寝坊し、遅刻して試験を受けに行きました。

で、どうなったかというと、あろうことか受かったのです。合格点は6割くらいだったのに対して、多分8割くらいは取っていたと思います。

僕は絶望しました。基本情報レベルのIT知識は、すでに当たり前のように3年間のうちに身に付けていたのです。

 

■営業のシゴトとは何なのか

では一体この、商談における苦痛は何なのか。全く新しい仕事を振られ、とにかくやりながらそれを覚え、それを何度も何度も繰り返しても、全く新しい仕事が新たに降ってくる。どうすればこのモヤモヤを払拭できるのか?

しかし、それもそのはず。僕の会社は、何かの分野に特化した商品を売るシステム会社ではなく、システムの総合商社みたいな会社だったからです。自分の携わる商談について全ての知識を詰め込もうとしていたら、残業時間が何時間あったって足りません。

それに気付いた僕は、ひとつの開き直りをすることにしました。

 

別に自分が全部わかってなくてもいいんだ。

 

システムについては広く浅く理解し、後はプロジェクトのゲームメイクに徹する。顧客の要望の概要を理解し、その要望に合う技術者をアサインし、プロジェクトを回すのが自分の仕事なのだと。

 

■一つの転機

営業4年目。僕に転機が訪れます。僕の会社には営業支援のコンサル部隊がいたのですが、若い営業を一時的にその部門で修行させ、そして再び前線の営業部門に戻すという社内の取り組みが始まり、僕に白羽の矢が立ったのです。

かくして僕は半年間、営業支援のコンサル部門で、営業の提案支援をすることとなります。より効果的な提案ができるように、顧客の業務分析をしたり、提案のストーリーを考えたり、投資効果を算定したりする仕事。僕にはこれがめちゃくちゃにハマりました。

 

期間終了間近、その時の上司には部隊に残らないかと打診もしてもらい、正直こっちの方が向いてるんじゃないかとしばらく悩みましたが、営業の上司にそれを打ち明けたところ「てめぇ、楽しようとしてんじゃねぇよ。まだまだ営業で苦労してもらうからな」と言われ、結局は営業部隊に戻ることとなりました。

言葉は乱暴ですが、僕にはこの言葉が嬉しかった。企業とは本音と建前の世界だと思います。配置換えというのは、どれだけ前向きな言葉で送り出されても、それは同時に元の部署からの戦力外通告であることもしばしば。営業としてはちょっと理屈っぽいところのある僕は、修行という名目で、前線から外されたのかもしれないという思いも多少あったのです。

そしてあまつさえ、そこでの居心地が良く、営業に戻ることに迷いを感じている僕に、その言葉。僕はもう一度、営業として前線で頑張ることを決意しました。

 

■最も輝いていた営業時代

4年目の後半から5年目は、僕の営業としてのビジネスライフは最も輝いていたと思います。

コンサル部隊で修行をしたことで、営業としてもひとつの武器を得ることができました。でもやることはさほど変わりません。営業の本質はゲームメイクです。

ソフトの細かい仕様やサーバのスペックは僕にはわからないので、顧客に満足してもらう為にはそれを上手く喋ってくれる技術者をアサインします。その為には社内の人間関係構築にも気を回す。それこそが営業の仕事です。そして、そこに少しだけコンサル部隊のノウハウが加わることで、個性を出すこともできました。

この頃はお客さんとの関係も良かったです。おまえは息子みたいなもんだと言って、地元の岩盤浴で裸の付き合いをしてくれたお客さん、君の出す見積もりだから信じると言って、数千万の見積もりを値引き交渉せずに通してくれたお客さん。

その一方では内外から理不尽な要求があったりトラブルに巻き込まれたり。つまり、良くも悪くも僕は営業としてのビジネスライフを謳歌していたわけです。

 

充実はしていたと思います。仕事はそれなりにストレスが溜まりますが、決して悪いことばかりではありません。プライベートでは、仲間と遊びを企画したり、社会人チームでDJイベントを企画したり。

僕の中で、仕事と好きは別でした。仕事は仕事で自分の能力が評価してもらえれば、それでいい。好きなこともプライベートでそれなりにできている現状に、満足していました。

ただ、その仕事を一生するのか、今の仕事で自分がどうなっていきたいかという答えは、見つからないまでした。

どれだけお客さんから信頼してもらっても、技術者に頼らなければ自分は何もわからないし、何もできない。そのもどかしさは変わりませんでした。

僕がどれだけ、お客さんの業務効率化を図るシステムを提案しても、コスト削減を図るシステムを提案しても、本当は技術者が居ないと何もできやしない。今考えれば営業なんだからそれは当たり前なのですが、当時の僕にはそれが苦痛でした。

 

■営業というシゴトを知った上での苦悩

きっと自分は、本当は何かのプロフェッショナルや職人の方が向いていたんだ。自分に自信が持てるフィールドが欲しい。

でも、もう遅い。自分は大学の頃、専門的な勉強もしなかったし、すでに社会に出て5年が経過していました。今の仕事だって、苦労してやっと順応したのに、今更一から新しいことなんてできない。そう思っていました。

 

結局僕は、現状に満足はしていたが、納得はしていなかったのです。

父がせっかく税理士をしているのに、息子2人は仕事を継がずにサラリーマンの道を選びました。

僕は両親がかなり歳がいってからの子供だったので、すでに父の年齢は70代後半。

別に、仕事を継がないことが悪いことというわけではありません。自分のやりたいことを見つけてそれに突き進んでいるならまだ良いでしょう。でも僕には迷いがありました。自分がやりたい仕事は何なのか、この答えが出ないまま、もし父が亡くなったら…。

誰も後継ぎがいないまま、せっかく父が立ち上げた事業が終わりを迎えたら、僕は本当に後悔をしないだろうか。それでも胸を張って、今の仕事を続けられるだろうか。自信がありませんでした。

その思いは日増しに強まっていきました。しかしなんだかんだ日々の仕事は忙しく、時間は容赦なく過ぎていきます。

 

■運命の日

そんな頃、僕がかなり力を入れていたシステム商談の受注が決まりました。お客さんとの決起会の後、当時の上司は僕に「若手の中で今1番脂が乗っているな」と言ってくれました。すごく嬉しかったのですが、日々モヤモヤが膨らんでいたその時の僕の胸には、何か引っかかるものがありました。

 

そして、運命の日はその1週間後に訪れます。

 

椎骨動脈乖離による小脳梗塞。突然に謎の頭痛に襲われた僕、しかしまさかそんなに深刻な症状になっているとは知らず、約2日間は仕事を続けていました。

そして、新しい商談の大事なプレゼンの日の朝、プロジェクタを肩に掛けて客先に向かう途中、僕は風に吹かれたようにバランスを失い、歩けなくなり、そしてそのまま病院へ運ばれました。

 

後半へ続く。